郷土の歴史
我が町、愛する郷土・・・『福田町古新田』の歴史を探る
時は江戸中期・・・大岡越前守が天下を裁いたあの時代に我が町にも
大岡越前守のお裁きが下ったのであった・・・・
▲福田町古新田(右手)を上空から撮った航空写真です
▲写真中央を走る県道は、享保8年(西暦1723年)11月に完成した福田新田堤防で右手が福田新田、左手がそれから127年後の嘉永4年(西暦1851年)に開発された福田新開。何れも備前国児島郡に所属し、農民出資による開発であったが、岡山藩の支配地であった(現・倉敷市福田町)。
※写真提供/倉敷市史編さん室(撮影者/安藤 弘志氏)
この欄では國守 卓史(くにもり たくし)氏の著書から
『大岡越前守裁く福田新田訴訟記』をご紹介させて頂きます。

は じ め に

 土地の古老から福田町古新田は、その昔江戸で大岡越前守の裁きをうけたという話を聞いたことがあった。それは本当だろうかと思っていた。それから30数年後、はからずも倉敷市史の編纂を職務として担当することとなり、この疑問を解明する時がきたのである。

 それのみでなく、それから130年後に出来た福田新開も大いに関連があり、その史料にも接することができた。これらの史料は複写され、倉敷市史編さん室に保存されている。しかし、史料のすべてを解明することは困難なので、ここではその一部の史料をよって福田新開の開発史をまとめた。本誌では表題を 『福田新田訴訟記』としたが、内容は 『福田古新田開発史』 と 『福田新開開発史』 の二部構成となっている。

 福田新田は、福田新開が完成したときから福田古新田と改称されるが、それまで130年の長きにわたって呼ばれた村名であった。ただし、新田には「村」という文字は付けないのが江戸時代の原則だったようで、福田新田村とはいわなかった。福田新田は享保の初期に開発され、まもなく280年を迎えるが、東高梁川上流の村々からの反対で江戸公事 (くじ) となり、一審で敗訴した児島側は追訴して勝訴するという、裁決までには至らなかったが珍しい裁判となった。そうした最中に、それまでの「古田畑保護主義から新田開発奨励」へと幕府の方針が大きく変わることになった。

 これら訴訟記録が市内福田町古新田の佐藤家と、倉敷は本町の小野家に、それぞれ保存されていた。両家は共に名主または庄屋を代々勤めた家であり、福田新田開発訴訟時の当事者である。特に佐藤家は、いったんは敗訴となった新田開発訴訟で、強靭な意思と行動力によって再吟味ともいえる追訴を果たした九郎兵衛の子孫である。
佐藤家文書〔注1〕は、『享保八年卯六月児島福田新田開発之節出入御留本写』と『児島郡福田古新田開発之頃書類写』および福田新田由来記などからなる『私日記』に、その主要な記録が集められている。「享保八年卯六月」の記録は、岡山藩の記録『撮要録(さつようろく)』 〔注2〕にも記載されている。
小野家文書〔注3〕は、『享保弐年酉正月 東大川尻児島郡福田表新田企川上訴訟之請引』に詳しい記録が残されている。いずれもそれぞれの立場で記録されており、当然のことだが、佐藤家文書は追訴後の記録に詳しく、小野家文書は当初裁許までの記録に詳しいものとなっている。両家の史料は、わずかとはいえこの期の江戸評定所における裁判記録として、見過ごすことのできない貴重な史料と思われる。これらの史料に基づき、福田新田開発訴訟事件の顛末を、時代の背景にも留意しながら追ってみることにした。

 それから130年後に完成をみた福田新開〔注4〕は、開発からちょうど150年めを迎えているが、これまた上流のほとんどの村から反対があり、二ヵ月にも及ぶ幕府見分使の現地調査も空しく、いったんは中止となった。それを地元の大庄屋や名主連中が岡山藩を動かし、さらには幕府を動かした。動いた藩と幕府の両者ともに共通していたことは、財政的な破綻状態にあったことである。 福田新田、福田新開ともに地元の百姓たちが、苦しい中から資金を出し合って開発したもので、幕府はむろん、岡山藩もほとんど出資らしい出資はしていない。そんなことは百も承知のうえで、新田開発を進めた先人たちの血のにじむような努力と、その強い意志の賜物であることを忘れてはならないだろう。

 福田新開は、北畝・中畝・南畝・松江・東塚の五ヵ村に分立するが、この開発史料は各所にあり、その量は多数である。一番多いのは野崎家であろうが、その外、岡山大学に保存されている池田家文庫、明治大学刑事博物館、旧大蔵省財政史室(現在は国立文書館へ移管)などの施設をはじめ、小野家、佐藤家など元庄屋・名主を勤めた民間所蔵の文書などかなりの史料がある。

 これら史料に恵まれなかったら、この小誌は成り立たなかったであろう。感謝しつつ一生に一度の大仕事の積もりで懸命に努力した。しかし、史料の読み違えや解釈の間違いがあるかも知れないが、今はひたすら先人の功績を伝えたい一心ゆえ、誤りの訂正は後世の人々にゆだねたい。

   平成十三年一月                    國守 卓史
つづく・・・・・
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